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時松辰夫
アトリエとき代表
取材日:04/11/29  東北工業大学にて
インタビュアー:齋藤 州一

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今回は大分県湯布院にあるアトリエときの代表であり、
工藝指導所の元研修生であった時松辰夫さんに
当時の工藝指導所についてインタビューを行いました。
工藝指導所のことから地域問題まで
いろんなことをお話しいただけましたよ。

──こんにちは。よろしくお願いします。
  さっそくですが時松さんが仙台にいらしたのは
  おいくつの時だったんですか?



仙台に僕が来たのは23、4歳だったと思うよ。
そのころね、国立工藝指導所が仙台にあったのね。


──それは何年頃だったんですか?


昭和12年生まれだから、昭和35、6年頃ね。
そのころ私が出た後で
東京の下丸子に引き上げていった。
そのあとここが
東北工業技術試験所になったのね。

そのときの工業技術試験所になったときにはね。
主なテーマは仙台の北の方に、
黒鉱っていう鉱山があって、
黒鉱の分析や研究に仙台市の工芸品の基礎が変革して、
工業技術試験所になったときに、
黒鉱の研究が主たるテーマになったのね。


──黒鉱っていうのはどういったもの何ですか?


私も詳しくは知らないんですが。黒い鉱石。
その黒い鉱石を分析して、ウランが出るかとか
石油分が出るかとか、亜鉛が出るかとか、
いろいろ分析、研究したんだと思う。
黒鉱っていうのは結局ね、
工業化社会に進展していく過程の
研究テーマだったんだね。

そのときすでに地場産業を経営してたわけ。
漆とか農業とか林業とかそういうものを。
工芸全般も経営してたんだね。
その流れが今の産業技術総合研究所東北センターだよ。

工芸品が工業に、
工藝指導所が工業に移行していったわけ。
経済発展の中で。
そういう歴史をたどっていったんだね。


──その時はまだ国立工藝指導所っていう
  名前だったんですか?



国立工藝指導所、国立産業工芸試験所になって、
そして東京は製品科学研究所、
そういう名称になってると思うよ。


──仙台にはどれくらいまでいらっしゃったんですか?


僕はやっぱり、研修生で憧れて来たんだから、
どうせ東北行くんだったら
東北の象徴である雪のあるときに行きたいって言って
12月1月2月来たの。

その時には今のケヤキ並木が
ちょうど5センチぐらいの頃だったのね。
で今の東北電力のビルがね、
初めてビルらしいビルの建設が
仙台市に始まったんですよ。
それまでは戦災の焼け残りで
木造の三越があったのね。


──いらっしゃったのはその3ヶ月だったんですね?


それがあってね。
昭和55年にまた仙台に来たっていうのは、
そのときの勉強のやり残しをしたくて来た。
それが昭和55年です。

そのときは秋岡芳夫さんが
(東北工業大学の)工業意匠科の学科長だったから、
秋岡芳夫さんと親しかったから、
お前来るなら俺の仕事も手伝えよって言われた、
その仕事が岩手県大野村の一人一芸の村工作だね。
そうゆう流れになってるんだね。

(工藝指導所には)剣持勇さんああいう人がいた。
でも勇さんがひいて弟さんの剣持仁さんの
時代になってたね、木工の方のデザイン担当は。
剣持勇さんはもう東京に移ってて、
弟さんが僕が来た頃にはいた。

で僕は何で来たかというとね。
国立工藝指導所のように
ろくろのあるところっていうのが、
日本に3つぐらいしかなかった。3つっていうのがね。
香川県の高松ね、
それから多分金沢にもあったと思うよ。

それから仙台の国立工藝指導所の中には
ろくろの部門があったわけ、それは漆器があったり、
こけしがあったりしたから、
そのろくろを勉強したくて来た。
そのとき何をしたかっていうと、まず道具作りね。
刃物作り。鍛冶屋の勉強をしたんだね。


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